「人生会議」コロナ禍ですっかり忘れられていましたね

 昨年11月、厚生労働省が作成した「人生会議」のポスターのことを覚えてますか?コロナのために、はるか昔のことのように感じますが、お笑い芸人がベッドの上で死期の迫った患者を演じ、患者支援団体などからその内容に批判が集まり、発送が取りやめとなりましたね。この「人生会議」、アドバンス・ケア・プランニング(ACP)と呼ばれる、患者本人の価値観や心配事、終末期と考えられる状況で行ってほしい治療・ケア、行ってほしくないことを家族や医療・介護スタッフと前もってよく話し合う、という取り組みのことです。厚労省が普及のために呼称を公募して命名したものでしたね。昨年末には、ボツになったこのポスターのおかげで、かえって「人生会議」が有名になり、年末年始の帰省の際などに老親とその子供との「会議」が増 えたことと想像しますが、今夏はコロナのせいでそういう対話がめっきりすくなくなることでしょう。かくいう綾織も帰省をとりやめました。今回は、終末期医療という少し重い話題について書きたいと思います。

コロナウィルス感染症蔓延は「生命の選別」と「過剰医療」を招く

 この「人生会議」、コロナ禍の中だからこそ大切と、先日、日本老年医学会がACPの推進に関する提言を発表しました。コロナウィルス感染症を含む重症疾患により死期が迫った際に、ACPを通じて得られた患者本人の治療・ケアに関する希望に沿った方針にもとづく意思決定がなされることはもちろん、医療崩壊のような状態になっても、年齢を理由に高度医療実施の優先順位を付けないということが示されています。欧米など他の国では、コロナ感染症蔓延による医療崩壊に伴い、年齢や合併症を理由に集中治療室への入室・治療の対象を決めるという、「生命の選別」が行われたといいます。本来なら救えた命が救えなかった。救命ボートの定員がオーバーだから、高齢者はご遠慮ください、ということ。とても悲しいことで、平時であれば想像もできないことです。日本では幸いこのような悲惨な事態にはなっていませんが、今後どうなるか分かりません。「生命の選別」までは避けられるとしても、コロナウィルス感染症でない、他の致死的な病気においても、終末期の「過剰医療」が行われるのが日本の医療の特徴であると思います。

延命のための「積極治療」を行うかどうかは、とても難しい選択

 命の危険が迫った状態になると、約70%の方が医療やケアなどをどうするか、自分で決めたり、望みを伝えることができないという報告があります。綾織の父は、50台後半に脳出血で植物状態となり、以降、2年生きました。僕はまだ駆け出しの医師でしたが、実家に帰り着くまで時間がかかったため、周囲が冷静な判断をすることができず、結果として植物状態を作り出す延命手術が行われました。担当医はおそらく、「やっても植物状態として数年生き長らえるだけ」なので、手術をしないでそのまま自然に死を待つ選択をすすめたかったと思います。でも僕はこのとき手術の実施を依頼した「周囲」を責めることはできませんでした。なぜなら、僕も担当医の推奨(この場合、「やめといたほうがいい」とははっきり言われず、暗に匂わす程度に説明されることが多い)を容れて、積極治療を断って父の死を受け入れられたかどうか、自信がないからです。今、振り返ってみれば、積極治療の選択が、以降の植物状態のケアという「過剰医療」を生んでしまったと思います。このようなことが日本中で行われていることは想像に難くありません。

患者の家族は、患者のことを思い遣っているつもりでも、実は自分が後悔したくない、という理由で患者の治療方針を選ぶ

 僕は数年前まで、患者さんを看取ることが多い病院で働き、数多くの死をみてきました。その際、死期の迫った患者さんの家族と相対することになります。当時ACPのような考え方はまだ普及していませんでしたが、患者さんが延命のための積極治療を望まないということを家族が把握していたとしても、いざその場面になると、目の前で命が消えていくのを直視することができず、患者本人が希望していない延命治療を家族が希望する、ということがよくありました。医療が発達していない昔は、家族が見守る中で自然に死を迎えるという方が多かったとききます。しかし近年では病院で最期を迎えることがほとんどとなり、昔の人に比べ死との向き合い方が下手になっているのでしょうか。医療訴訟の増加など、昨今の医療を取り巻く環境の変化から、医療従事者も家族の希望を容れないわけにはいかなくなっており、終末期の過剰な医療行為の増加につながるのでしょう。僕の父についても、同じようなことが言えると思います。患者(例えば親)がどうしてほしいかよりも、自分の心の負担が軽くなるような選択をしがちで、それを患者本人のためと思い込むようにしている。これは日本人のメンタリティだと感じています。患者さんの死に際し、家族に説明をしますが、このメンタリティの理解はとても大切で、遺族の心の負担をやわらげるような話しぶりを心がけていたことを思い出します。

「人生会議」コロナ禍だからこそ忘れないで

 ちょっと重くなってしましましたが、このようなことを書くのは「人生会議」を通して、今は元気な老親の価値観を知ることはとても大切だと思うからです。厚労省のホームページを要約します。
 もしものときに、自分で決めたり、自分の気持を伝えられなくなったりする前に、あらかじめ作成しておく書類のことを「事前指示書」と呼びます。リビング・ウィルやエンディングノートなども同様の取り組みですね。事前指示書が実際に役立つかどうかを調査した大きな研究がアメリカで行われています。その結果は驚くべきもので、事前指示書を書いた人と書かなかった人で、ご本人の希望する医療やケアが尊重される割合は変わらなかったというのです。なぜこのような結果になったのかを検討した結果、ご本人が家族など信頼できる方々(つまり、もしもの時に「あなたなら、きっとこう考えるだろう」と想像し、医療・ケアチー ムと共に今後の方針について話し合いをしてくれる方々)との十分な話し合いを行っていないと、たとえ事前指示書が書かれていても必ずしもその内容が尊重されないことが明らかにされました。
 ネーミングのよしあしは賛否ありますが、コロナ禍の今だからこそ「人生会議」をおすすめしたいと思います。その際、縁起でもないからそのような話を切り出しづらい、ということがあると思います。厚労省のホームページに千葉県松戸市の試みが紹介されています。かるたをしながら、学んだり考えたりできるもので、医療・介護・終活(お墓のこと、お金のこと、おうちのこと、葬儀のこと)など、幅広いジャンルについての読み札を使います。参考にしてみて下さい。

大切な人との別れを後悔なきものにするために

 ここまで、過剰な医療の戒め、という主張が目立ってしまいましたが、逆に、必要な医療が手控えられる、という状況も存在します。そのようなことは、患者の死を多く経験していない医師が、終末期の医療判断を任される場合に生じます。末期がんなどのように、延命のために頑張ってもその甲斐がない場合は理解できますが、肺炎などの感染症や、その他の治療可能な病気を前にして、終末期の扱いをし、家族もその方向性をなんとなく支持してしまい残された貴重な時間が短くなる、という状況をときおり目にします。政府はご自宅で看取る「在宅医療」を推進していますが、それに携わる医師がどれだけ多くの看取りをしてきたかにより、最期、あきらめるべきか、頑張って治療を行うべきか、その判断力、倫理観、人に寄り添う人間性が左右されます。良いかかりつけ医・在宅医療担当医をいかに選ぶかは、とても大事だと思います。